土曜日はサイトウキネンオーケストラの公開リハーサルに行ってきました。
ショスタコーヴィチの5番をやってたんですけど、あれの第四楽章、超有名な旋律が出てくるところ、二階最後列の末席で聞いていたわたしは度肝を抜かれました。
「ええっ! トロンボーンってこんな凄い音するの?!」
実演にしろCDにしろあんな響きは聞いたことがなかったです。すげー。ここ数年のサイトウキネンのボーンセクション、山本、呉、ストレッカーの組み合わせは最強ですね。よし! 俺もあんなふうにやりたい!ってことで文化祭ついでに楽器を買います。
会場でトロンボーンケースを抱えている人がいたら、きっとそれはわたしかお忍びできている紺野さんです。もし見かけたら、気軽に声でもかけてくださいな。

じゃあ、せっかくなんでクラシックな話。
再演の声も止まない「リボンの騎士」。これがもし再演につぐ再演を重ねたとします。仮に来年やるとしても、もう、オリジナルキャストは組めないので、ナイロンは違う人がやっているはずです。そんなのが何年も続いて、オリジナルの人がとうとういなくなった頃合がきっとこのミュージカルが「クラシック」になる瞬間なんでしょう。そして、その瞬間からクラシックのややこしい諸問題に直面してしまうことにもなってしまうかもしれません。

問題その一、時代性
このお話はそもそもが中世ヨーロッパあたりを舞台にしているので、現代の観客にとってちょっと「遠い」話になりがちなんですよね。いつの時代でも人間性の根幹は普遍だし、この舞台はそこに切り込んでいるから伝えるべきものは伝わるんだ、という考えもあるでしょうが、話の大筋はそのままに時代設定なんかをもうちょっと現代人の問題意識に近いところに持ってこようとする試みが当世オペラの流行です。
リボンの騎士でやるならば、きっと、サファイアGID性同一性障害)に悩む女性になり、その事実と愛した人フランツとの狭間で揺れる真実の愛を探るなんてな話になることでしょう。ヘケートはさしづめ、天才的な性転換手術の腕を持った外科医師とか。

問題その二、原典主義
上記と矛盾するようですが、当世クラシックの演奏面の流行に、初演当時の楽器や奏法がどうだったかを探りその要素を取り入れる、もしくはそれにほぼ近い形を再現するというところがあります。これも案外大変なんですよ。
例えば、リボンの騎士だって、そんだけ再演が続くほどロングランになれば、資金も余裕ができてバックにフルオーケストラをつけるのが当たり前になっているかもしれないわけです。そこからあの編成に戻したときに、「う〜ん、なんか物足りない」と感じる人もいるかもしれません。そしてそうゆうことが実は結構多いってのがクラシック界の現状のようにも思えます。
あと、資料として残っている楽譜にしても、やはり資料として残っている当時の演奏とつき合わせてみると相違点だらけだったりもするわけです。当時の石川フランツは楽譜どおりにはどうやら歌ってはいなかったみたいだが、それは技術的に拙くてそうなってしまったのか、石川個人の個性としての結果なのか、当時の演出家の意図するところなのか、当時は楽譜の読み方が違っていたのかなどなどなど……

うーん。めんどくさいことやってるんですね、クラシックって。